距離感を感じる

こんにちは。まっちゃです。

 

来年度においても、法規担当者として任を全うする予定です。

全うできているかはいまだに分かりません。

 

前回は事業理解として行政活動の目的と手段としての一説明を試みたところ、今回は行政活動における法規担当者の役割、関わり方等について考えてみたいと思います。

 

考えるに当たり、簡単なメモとして公開して、その後ブラッシュアップをします。

ブラッシュアップのため、令和5年3月25日(土)午前10時ごろから、twitterのスペース上でお話しするとともに、スピーカーさんがいらっしゃれば、ディスカッションをしたいと考えています。

 

無闇に論点を拡散させると焦点がぼやけますので、距離感をキーワードに3つに絞ります。

1 現実の在り様と行政における無謬主義

2 行政活動と法律による行政の原理の距離感

3 事務事業及びその担当者と法規担当者との距離感

 

1 現実の在り様と行政における無謬主義

行政主体は、行政機関を有し、補助機関をして、様々な活動を行っています。行政活動は、それが正しく、効果的に、効率的に執行されるならば、その目的が妥当である限り、社会の公益を増進させ、又はその低下を防ぐことになるでしょう。少なくとも、立法者や施策執行者はそのように考えて、執行しています。本当でしょうか?

 

個別の補助機関がどのような内心を有しているかはともかく、そういう建前になっています。また、大義名分があれば、あるいは、国民市民の支持があれば、行政はそれを無視することはできません。統治主体としての行政は、説明責任を果たさなくてはなりません。

 

しかしながら、建前を、大義名分を、世論を踏まえて、執行されているでしょうか?説明責任は、客観的に果たされていると言えるでしょうか?

 

多くの方が、否と答えるのではないでしょうか。

もちろん、補助機関として勤務している者は、そうは言わないでしょう。

 

この距離感は何でしょうか?

 

現実の行政の態様と行政機関が建前として述べる行政の在り方には常に距離があります。もちろん、ほとんどの行政活動は適法かつ効果的に行われています(と私は信じているわけです。)。一方で、そうではないものは、特に目立ちますし、世論の批判の対象になります。世論が反応しなくても、私人や事業者が行政機関と向かい合うときにも、同様ことは生じます。なぜか。

 

行政が権力を有しているなどの原因も考えられますし、部分的にはそうです。

今回は、行政の無謬主義に注目します。

 

行政がやっていることは正しいか?間違っていないか?と考えることは当然できます。一方、行政がやることは間違えない・間違えるはずがない・間違えるはずがない、という大前提(無謬主義)があります。

司法判断を考えると、行政裁量の範疇かどうかを検討することが多いですが、この裁量の範疇かどうかで守り切れるか?を、法規担当者としては最終的には考えます。

 

一度決定したことは、間違っていてはいけません。決定したから、正しいのです。手続的に、形式的に、正しいのです。そうです、正しいのです。

 

ここに論理の飛躍があります。手続的制約は、違法・不適当な判断を避けるために設けられ、正しい意思決定を支えるものではありますが、内容的な正しさ、実質的な正しさを担保するものではないことは、読者の方はよく理解していると思います。

 

また、形式的な間違いがあれば、例えば不利益処分に係る不十分な理由付記がありますが、やり直せばよいのです。瑕疵を治癒すればよいのです。観念的な瑕疵をなくせばよいのです。

 

行政は間違えることはできません。権利を擁護し、及び不当な義務を課さない主体である必要があるからです。ただ、それは、行政が正しいことを、担保するものではなく、むしろ、行政は間違え、違法・不当な行政活動を行い、作為も不作為も行う、不完全なものです。行政観として、間違えてはいけないもの(理想)でありつつも、間違えるものだ(事実)というのが、バランスの良い見方ではないでしょうか。

 

もちろん、行政の安定性も重要です。公定力などがそうですが、行政が不安定であれな、行政への信頼を損ないます。国民市民が行政に対する予測可能性を失うことになりかねません。この間のバランスをこそ、先の行政観をもって、内部の人間は重視するべきであると、私は考えています。

 

2 行政活動と法律による行政の原理の距離感

行政活動は目的を有しています。その目的のため、事業や施策を行政は展開しています。これらを担うのは、事業所管部署です。当該事業所管部署が、この社会に存在する諸問題のうち、行政が解決すべき問題を抽出し、又はその解決を委ねられ、問題解決のための事業又は施策を展開します。ここにおいて、行政は、当該目的もこれを達成する手段についても、法律による行政の原理を踏まえて、政策を立案し、執行していかねばなりません。

 

換言すると、憲法、法令等に違反しないように、目的を措定し、活動を行わねばなりません。ここにおいて、そもそもその活動の根拠が規定されているのか、事実的行為か法的行為なのかなどをしっかり押さえておかねばなりません。この点について、前回の記事において説明を行いました。

 

しかし、前項で述べたように、行政は完全無欠とはいえません。むしろ、常に不完全です。全ての社会問題を解決する打ち出の小槌がないように、行政主体が抱える問題を解決するマジックアイテムもありません。

 

かつて、トマス・ホッブスは国家権力をリヴァイアサンに喩えたわけですが、統治主体である行政は憲法を含めた法律の縛りがなければ、暴れまわってしまうでしょう。

 

執行機関は、場合によっては人の財産を侵害し、生活を変えてしまう可能性のある活動を行っています。権力を、恣意的に使うことは、不可能ではありません。統治のため、という大義名分の下に、何をするかわからないのが行政です。だから、法律に縛られるわけですが、縛られた行政主体は一定の制約の下、自由(裁量)をもってその目的を果たす優等生でしょうか、縛られたまま虎視眈々と暴れることを狙う怪物でしょうか。

 

3 事務事業及びその担当者と法規担当者との距離感

では、これらをだれが考えるのか?というと、当然、事業所管部署です。

事業所管部署の担当者は、事業や施策の実施に当たり、法規担当者に相談することがあります。

よく相談があるのは、次の3つです。

⑴ 事業や施策の根拠規定の解釈

⑵ 条例や補助金交付要綱などの制度設計

⑶ 契約書、覚書などのリーガルチェック

 

法規担当者は、法令等を踏まえ、これらに当たります。

目的が妥当であり、施策との合理的な連関があれば、事業スキームの構築のため、法的な側面からリスクを検討し、それを最小限にできるよう、アドバイスをします。

 

一方、法的に問題がある事柄について、言うべきことを言うこともその職責です。

事業所管部署に対して、正面から対立することもあれば、よりリスクの低い案、法的問題が生じにくい案に誘導することもあります。また、そもそも、リスクを認識していない事業所管部署に対して、これを自覚するように伝えることもあります。

 

当然ですが、法制部門は、事業所管部署ではありません。その執行には一切の責任を持ちません。だからこそ、正論を、筋の通った意見を、臆せず言わねばなりません。言うことができるわけです。

 

法制部門が、事業所管部署と一緒になって施策を進めるのであれば併走することが理想と考えます。ランナーのよき伴走者たることで、進むべきときに進むことができることを伝え、止まるべきときにその旨を即座に伝えることができるからです。また、初期から法的な土台を組んでおけば、そうそう崩れることもありません。

 

執行の責任を、法制部門が負うのであれば、この限りではありません。

 

距離感について考えました。

随時、リバイズしていきます。

 

以上