組織の中の法規担当ー文書に向き合う姿勢ー

組織の中での法規担当の役割について、ヒトゴト課の職員との会話の中で気付きを得たので、いくつかを共有します。

 

以前から、ヒトゴト課から新採向け研修の依頼があり、文書研修と法務研修を今年度は担当することとなった。

せっかくということで、学習効果を高めるため、いくつかを提案している。研修受講者の対象を増やしたり、事前課題をやってもらったりと、研修構成を練っている。なお、私の事務分掌にはないのだが、あくまでも研修の内製化を図るということで、法規担当をやめても私にやらせるなどというアリガタイ言葉をもらっている。ぜひ反故にさせてもらいたいところ。

 

学習効果を高めるため、OJT担当者の能力向上を図りたいのだが、受講者の書いた文章をOJT担当者が校正し、両方とも私が採点するみたいなことを提案したのだが、猛反発を受けた。学習効果を高めるため、3桁くらいのペーパーなら見てやろうと思っていたのだが、そもそもそういう問題ではないらしい。

 

問題の所在は、職位が低い者が高位の者の文章にケチをつけることはいかがなものか、ということだった。当然、私は職務の中で、誰の文章であっても手を入れることはあるのだが、むしろそれは例外的であるようだ。ほぼ、法規担当しかしてこなかった私、言われてみては当たり前かもしれないが、非常にショックを受けた。

 

ここからは私の意識について焦点を当てるのだが、文章のルール・お作法があるからして、当然、その文章をブラッシュアップすべきと考えていたのだが、要は部下が上司のことにケチつけるのは、できないだろう、と。

言われてみれば、私も頼まれれば、一緒に検討しながら、推敲を重ねるわけだが、こちらから内容はそうと、体裁や用語がマズいと言うと反発は少なくない。

 

これらについて、文章の作法を知らないんだなぁとか、そこに時間をかけるのがパフォーマンスに見合わないと思って「敢えて」やらないんだろう、と思っていた。

のだが、ふと腑に落ちたのは、できる・できないではなく、文章を直される、それも下のやつにそうされること自体を快くないと思う人たちがおり、上がそう考えているかどうかはさておき、上の者の生産物に指摘することは、事実上タブーであると、そのように考える層がいる、ということ。

 

もちろん、組織の方針や意思決定に従うことは理解している。が、その方針や意思決定を文章化するときに、詰め切れずに、ゆるふわな文章を作って良しとしている例が、私の観測範囲だけでも少なくないのに、全社的にはかなりの数があるのだろう、ということ。

 

私自身は、文章の校正や遂行を組織的に行うこと、あるいは下の者が行うことも業務改善の一部であると考えているのだが、その考えは、少なくとも弊社においては(誇張して表現すると)異端的ですらあるかもしれない。

 

そも、なぜ文章を推敲しきらればならないのか。

ふたつの側面がある。ひとつは、形式的な統一性である。当該団体における共通ルールを踏まえた文章・文書を作成し、これを使い、その団体における用語や意味の統一を図る。もうひとつは、内容的な統一性である。いわずもがな、用法用語が統一なされていない文章は、誤解を生む。もちろん、論理的に精密だからといって、誤読がなくなるわけではない。むしろ悪文とすら言われる可能性がある。

これらについて、その団体の行うことについての信頼性にも関わる事柄であると、私は考え、重要視しているのだが、そうではないらしい。

むしろ、必要な文章がそろっている「ようであれば」よいのだ。あるいは、表現したいことが書かれていなくても、尽くされていなくてもよいのだ。

 

これらの点にを踏まえ、彼らが見落としている点があると思う。

それは、読み手のことを考えてはいない、ということ。

読み手に伝わるように書くこと、読み手にどう伝えればよいか、これらについて悩むのであれば、何を伝えたいのか、この文章で伝わるのか、誤解ができるだけないようにどのように表現すればよいのか、そのように考える必要があるだろう。

その視点が大きくかけている。

 

単に、文章遂行能力が低いとか、職位が上の人の意向が重要であるとか、そういった組織風土におさまらず、発出相手のことを考えていない、その視点が欠如している、そのことについて私はショックを受けたのだと思う。

 

誰に対して、その文章を送るのか、何を伝えたいのか、果たして表現したいことがしきれているのか、改めて若いのには伝えていきたい。

併せて、最終的に、法的にトラブルなどになったとき、第3者がみてどのようにとらえられるのか(裁判になって、その文書が書証となり、必要事項が記載されており、論理一貫して述べるべきことを述べられているのか、読みてるか)、伝えていきたい。

そして、彼らの能力向上を通して、組織全体の能力が向上することを祈るばかり…

祈っているだけではいけない、そのような仕組みや仕掛けこそ必要だ。

 

そのひとつとして、先の提案をしたわけであるが、先に述べた重要性以前に、内部的な論理だけで文書について語られてしまったことに、かなりショックを受けている。

当たり前の発想であるし、組織である以上避けられない点であるが、上席の言うことは正しい、正しくなくても指摘することは避けるべきという原則として、組織風土に残していくのはこれらからの時代の複雑性に対応できない硬直性といえるのではないか。

(指摘する場面はTPOに応じて考えるべきであるし、口は災いのもとでもあるのだが)そのような上席が減っていくことを祈るばかりである(こればかりは祈るほかないか。)。